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知らなかったこことも「明治維新」とは!? (2017.06.01)

徳川幕府の270年に渡る鎖国政策によりカトリック勢力を閉め出し長期の平和を享受した江戸日本も19世紀に入る頃にはロシア、アメリカ、イギリスなどの欧米列強の船が近海に出没するようになりました。

ただし当時は欧米列強同士も戦っていました。
例えばフェートン号事件は
「イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を捕らえる為に長崎港に侵入しています。」


ロシアとトルコ間のクリミア戦争では英仏も参戦しました。その連合艦隊がカムチャッカ半島先端近くのロシアの要塞を攻撃し、その二日後にはイギリスの軍艦がロシア艦隊を追撃するために長崎に入港、といった具合です。

特に日本に衝撃を与えたのがアヘン戦争です。イギリスが清との貿易赤字をカバーするためにインドで麻薬のアヘンを作らせ清に輸出させていました。

ところが、1840年麻薬中毒患者の激増と代金流出に困った清がアヘンの取り締まりを始めるとイギリスは戦争をしかけました。


今日の麻薬マフィアさながらの悪行を国家として行っていたのが、当時の欧米列強国でした。

イギリスは圧倒的な海軍の軍事力で清を打ち負かし、多額の賠償金を取り香港を植民地として割譲させました。

これは、
日本にとっても世界の大国と思っていた清国がヨーロッパの片隅(島国)の単なるイギリス艦隊のみに負けたという事実を受け入れなければなりませんでした?

このニュースに当時の日本の武士や学者の中に日本の安全と独立に危機感をもつ人々があらわれても当然、不思議はありません。


老中の水野忠邦はアヘン戦争で清国がイギリス艦隊に敗れた事を知りその不安から、異国船打払令をやめ、日本に寄港した外国船には燃料の『まきや水』を与えるよう命じました。

一方で、幕府の軍事力の強化を目指しました。

江戸の巨大な人口を養う為の食料は海上輸送に頼っており異国船に江戸湾を封鎖されたら10日で飢餓に襲われる。忠邦はその予防措置として銚子から品川への内陸水路を作ろうと印旛沼開発を目指しました。

1848年、アメリカは米墨戦争(べいぼくせんそう)によりメキシコよりカリフォルニアを獲得しました。そこから大西洋横断するコースでの中国進出に欲を出していました。

つまり、
日本を補給基地として活用ができれば、アメリカ東海岸から中国「香港」へも、インド洋経由で134日かかっていたものが、アメリカ西海岸から日本へ、太平洋経由で18日で行けるという相当な時間短縮が見込まれたため、ヨーロッパからのアジア戦略に対抗するためにも、日本の開国は何としても実現させたいものになっていたようです。

1853年ペリー率いるアメリカの黒船艦隊が浦賀に来航し、圧倒的な軍事的な圧力のもとで徳川幕府との『日米和親条約』を結びました。これはアメリカの軍艦(船)に食料や水、石炭を供給すること、アメリカの領事を下田に置くことを約束した不平等条約でした。

幕府は外国との戦争をさける為、ハリスと交渉して条約案を作成し朝廷に許可を求めました。しかし外国との関係を結ぶことをきらった朝廷は条約を結ぶことを許可しませんでした。

孝明天皇は
「通商条約では表面上は友好をうたっているが、わが国を侵略しようとするもの」
として反対してしまいました。

アヘン戦争がアヘン貿易から発している事、しかもアメリカもトルコのアヘンを清に売り込んでいたことを考えれば当然の危機感とも言えますが・・・


しかしアメリカの軍事的圧力に屈した大老・井伊直弼は、朝廷の許可を得ないまま日米修好条約を結んでしまいました。[米国の圧力は相当で勅命を超えていた?]

この事で天皇を尊ぶ「尊皇論」や外国の勢力を排除しようとする「攘夷論」が一段と高まり、尊王論と穰夷論とが結び付き幕府の政策に反対する「俗にいう尊王攘夷」運動が盛んになりました。

徳川幕府に対する非難に対し井伊大老は権力で弾圧し吉田松陰や橋本左内など天下の志士を処刑するあの安政の大獄を起こしました。

これに怒った水戸藩・薩摩藩の浪士たち十数人が井伊大老を江戸城桜田門外で暗殺するという『桜田門外の変』が起こりました。

それでも
幕府は外にはアメリカの戦力を恐れて通商を始め内には権力で異論を押さえ込みました。その結果として「尊皇攘夷」運動が高まって行きました。

こうした中、文久3(1863)年、欧米列強と長州藩と薩摩藩が戦うことになるわけです。 英・仏・米・蘭の4国艦隊は連合して長州藩に報復の攻撃を行い、下関砲台を占領しました。

こうして欧米の軍事力を目の当たりに実感した長州藩の木戸孝允などは列強に対抗できる強い統一国家を造るため幕府を倒そうと考えるようになりました。「倒幕です」

薩摩藩も生麦事件の報復のために起こった薩英戦争で、イギリス艦隊に鹿児島を攻撃されると西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎりはじめ、方向転換し、イギリスに接近しては軍備を強化し整えいきます。

勝海舟の弟子「坂本龍馬」などの活躍もあり、薩長両藩は単純な攘夷は不可能でありむしろ欧米のすぐれた文明を導入することで日本の独立を守り欧米に負けない国家の建設へ向かうことが現実的だと考えるようになりました。


こうした中で第15代将軍徳川慶喜は幕府単独による政治はこれ以上続けられないと考え、慶応3(1867)年10月政権を朝廷に返すことを受け入れ発表しました。
「大政奉還です」


その後の勝海舟などの江戸城無血開城などは植民地化を防いだと言われています。

列強がひたひたと押し寄せるなかで、明治新政府は早速、朝鮮との国交を求めますが朝鮮はこれまでの慣例と異なるとして断りました。

新政府は朝鮮が朝貢する清と対等な内容の条約(日清修好条規)を結ぶことで朝鮮との交渉を進めようとしましたがうまくいきませんでした。


江戸時代、わが国と朝鮮は通信使などを通じて良好な関係にありました。

しかし新政府が朝鮮に使節を派遣した際,朝鮮側は国書の文言が従来と異なることを理由として 日本と外交関係を結ぶことを拒否しました。

この「文言」には天皇をさす「皇」の文字が使われていましたが中国や朝鮮では中国の皇帝以外には使ってはいけない文字とされていました。

朝鮮は太古からの「華夷秩序」(シナを世界の文明の中心“中華”とし周辺の野蛮“夷”はすべてその属国とする世界観)の意識のままでした


明治新政府が朝鮮との国交を求めたのはロシアから日本国を守るためです。

ロシアは1706年カムチャッカ半島を領有して南下を続け、1860年には沿海州を清から奪ってウラジオストックに港を開き翌年ロシア軍艦が船体修理を理由に対馬に入港しそのまま居座ってしまうという事件が起きました。

この時はイギリス公使が幕府に提案し英軍艦を送って威嚇し退去させました。

陸伝いに領土を広げつつあるロシアの姿を見た日本人が気づいたのは朝鮮半島の重要さです。もしロシアが南下し朝鮮を植民地にするようなことになれば日本にとってこれほどの脅威はないからです。それは、彼らはまず日本本土と朝鮮の間にある対馬や壱岐を占領し島伝いに日本にやってくるという不安がよぎったからです。

鎌倉時代の(立正安国論で言う他国侵逼難?)「日蓮」で有名な事実、そのコースで日本に二度も攻めてきたのは蒙古人王朝の元でした。「歴史的な教訓も生きたらしい?」

そこで日本政府が何よりも期待したのは朝鮮の近代化でした。もし朝鮮がその宗主国、清朝の真似をしていたずらに西洋を侮り抵抗すればかえって外国の植民地になってしまう。

それよりすみやかに開国し近代化したほうが朝鮮のためにもなるだけでなく、日本の国益にも合致すると考えたわけです。しかし朝鮮はそんな日本の危機感を理解することもなく国交要求を拒絶しました。


ここから「征韓論」が出て来ました。西郷隆盛は自分が単身、朝鮮に赴き国王の実父大院君と腹を割って話し合い日本と朝鮮が手を結んで欧米列強から両国を護ろうと説得する、武力を用いるのはそれが失敗してからで良いと主張しました。勝海舟もこの意見でした。

しかし、西郷が朝鮮で殺されれば必ず戦争になり欧米列強に介入の口実を与えてしまうと岩倉や大久保は考えて徹底的に反対していました。論争に敗れた西郷は鹿児島に戻り遂には西南戦争に至ります。この事件で、西郷のようなカリスマが必要と天皇を元帥とする日本軍が誕生しました。


その後も日本は朝鮮と国交を結ぶ交渉を続けましたがそれがうまくいかず、1876年朝鮮との間に条約(日朝修好条規)を力で結び朝鮮を開国させました。ただし、条約の内容は日本のみが領事裁判権を持つなど不平等なもので日本が欧米諸国からおし付けられた不平等条約を朝鮮に当てはめるようなものでした。

朝鮮半島で『日朝修好条規を結ぶことで朝鮮に清との朝貢関係を断ち切らせたいと考えた日本』と、『朝鮮に対する影響力を堅持し欧米諸国と植民地との関係のように強化しようとする清』とが勢力争いをくり広げることになりました。

明治15(1882)年、朝鮮軍の兵士が暴動を起こしたのに乗じて清国軍が介入し反乱を鎮圧し大院君を逮捕して事実上、朝鮮は清国軍の支配下に置かれました。

明治17(1884)年、今度は日本に学んだ開国派の金玉均や朴泳孝らがクーデターを起こしますがこれも袁世凱が1500名の清軍を率いて武力介入。

清国軍は宮廷内にいた日本人を殺害しさらに金玉均らが日本公使館に逃げ込むと公使館そのものに火をかけ多数の日本人が焼き殺されました。

こうなると日本は清国との戦いは避けられないと考えるに至ります。同じ頃大国ロシアがその南下政策によって太平洋側に勢力をのばし、これに対抗しようとしたイギリス軍が朝鮮南岸の島を占領する事件もおこりました。

「隣接する朝鮮がロシアなど欧米列強の勢力下に置かれれば自国の安全がおびやかされるという危機感」が日本を突き動かしたのです。

つまり、「朝鮮を勢力下に置く清に対抗する」事で清の影響力を排除し朝鮮を独立国にしようと軍事力強化に努めたのです。


1894(明治27)年、政府や外国勢力に反対する大規模な農民の暴動(甲午農民戦争、東学党の乱)が起き清は朝鮮の求めに応じて「属国を保護する」という理由をつけて出兵し、これに対抗して日本も出兵したためついに日清戦争が勃発しました。

黄海海戦は清国が金にあかせて購入した主力艦「定遠」「鎮遠」は世界最大級、最新鋭の巨艦であり大方の予想は7割方、清国の圧倒的勝利というものでした。

しかしふたをあければ日本艦隊は艦の大きさは半分程度ながら高速航行と速射砲、兵員の鍛錬度、士気で圧倒しています。

連合艦隊司令長官・伊東祐亨は旧友である清国北洋艦隊提督・丁汝昌に投降を勧める懇切な手紙を送り丁が服毒自殺を遂げるとその亡骸を送るのに粗末なジャンク船では忍びないと運送船を提供。その武士の情けは欧米の騎士道に通ずるものとして世界に感銘を与えたそうです。

日清戦争での清の敗北によって古代から続いていた中国を中心とする東アジアの伝統的な国際関係はくずれ「例:朝鮮の王朝の継承など清国の承認が必要」朝鮮は清からの独立を宣言し国名を大韓帝国(韓国)に改めたのです。

日清戦争に敗れた清国は張り子の虎であることが証明されて以後、列強から領土を蚕食されて一時は半植民地状態となりました。


こうして日本の努力もあり独立を果たした韓国ですが、今も中国の影響が大きく、何故か反日運動も続いています?

ロシアも北朝鮮と韓国が仲良く統一されることを望んでいないようにも見えます。
また、中国は今でもアジアの中心の国と言う自負を捨てていないようです。
そして、アメリカと北朝鮮の軍事衝突が現実の課題となっています。

第二次世界大戦(こちらも立正安国論で言う他国侵逼難??)で、力でねじ伏せる時代が終焉を迎えたことに、本当には気づいていない国々の傲慢さが人類破壊に結びつかないように祈る今日この頃です。

すると北朝鮮の日本への課題はどうなる???
(こちらは立正安国論で言う他国侵逼難には??)
調べて見るか?

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