FP1―オフイス21 [エフピーワンオフイスニジュウイチ] の日記
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何それ?知らなかった?・・・ドン・ロドリゴの『日本見聞録』?
2017.05.12
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1890年・・・エルトゥールル号遭難事件・トルコ「和歌山県は串本」
より以前にも千葉御宿でスペイン帆船が遭難した史実が存在しているらしい?
徳川家康が存命の2代将軍秀忠の時代のことである。
時代は明治に移り・・・
1888年、明治21年、日本が諸外国と通商条約「不平等ばかり」を結んだ。ただし、
メキシコと締結した日墨修好通商条約は日本にとり事実上初めての平等条約らしい?
なぜ?
関ヶ原合戦直後の1609年8月10日のことらしい?
フィリピンのルソン島マニラ、カビーテより3隻が出航して太平洋を横断していた。
南米ノビスパン(スペイン領メキシコ)のアカプルコへ帰国するスペイン帆船らしい?
ところがグアム島手前のマリアナ諸島あたりで暴風雨に巻き込まれてしまった。
大きな高波に木の葉のように翻弄されて帆柱は折れ、舵は壊れた。
日本列島へ向かって北上する黒潮の流れに乗り漂流することになる。
一隻の帆船「サンタ・アナ号」は豊後水道に入り大分県は臼杵中津に流れ着く。
『日本見聞録』を残したドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサが乗船していた。
スペイン領のフィリピンの総督任務を終えて本国へ帰国の途にあったらしい?
旗艦『サン・フランシスコ号』は、2か月近くも漂流を続けたらしい?
10月2日に房総半島の太平洋岸「勝浦」近くにある御宿の岩和田海岸に漂着した。
沈没する船からは、373名が夜の10時も過ぎた暗闇の海原へ投げ出されたらしい?
50日間以上も漂流して疲弊しきった身体に、月明かりもない初秋の寒さが襲う?
怒涛が打ち寄せて、56名の命を暗黒の波間に沈めたらしい。
遠くの海岸に見え隠れする人家の灯を見つけ、生き残った船員は泳ぎ続けた。
観たこともない異様な格好と体格の異邦人が深夜に田尻の浜に泳ぎ着いて来る。
そこは、当時の人口300人足らずの上総国大多喜藩領の岩和田村であった。
強風と潮騒に交じって緊急事態を知らせる半鐘が鳴り響いたらしい?
松明を焚いて大騒ぎとなった。
ずぶ濡れで恐怖と寒さに震えて助けを求めている青ざめた遭難者たちが見えた。
この緊急事態に、寒村の村人には人間としての振る舞いにてっしたらしい?
自分の袢纏を脱いで急いで着せる者もいた。
たき火をして暖を取れるようにマキをかき集める者もいた。
ムシロに横たわり震えて意識を失い始めている遭難者には服を脱がせた。
漁師の女たちは自分の着物を脱ぎ棄て、素肌を密着させて体温で直に温めた。
貧しい漁村の村人たちは、なけなしの食料を惜しみなく持ち寄った。
そして37日間も看病を続け、317名もの命を救ったのである。
地元の大多喜藩主・本多忠朝は、ドン・ロドリゴ一行を盛大に歓待したらしい?
そして、そのまま江戸湾を迂回するように陸路を北上して、行列は江戸に到着。
江戸城への登城を許されて2代将軍・徳川秀忠に謁見したらしい。
また、静岡・駿府城の大御所である家康に会いに行っている。
そこでスペイン人が江戸湾に入港する許可を得て、スペインとの貿易交渉が成立した。
一行はその後一年近く、当時の大坂や京都も見物旅行したらしい?
遭難から一年後、オランダ商船で大分に漂着し家康の外交顧問をしていた、
イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦 按針)が、
家康の命で建造していた洋風の帆船「按針丸」を、
ドン・ロドリゴに提供することになったらしい?
この船を『サン・ブエナ・ベントゥーラ(幸運)号』と命名し、
1610年8月1日に浦賀から祖国メキシコに向けて出発したらしい。
当時は風任せの航海で、3か月半もかけて11月13日にアカプルコに帰還している。
船には、京都の商人・田中勝介ら23人の日本人も同乗して渡航したらしい?
翌年には、スペイン国王の命で、セバスチャン・ビスカイーノを答礼使として
伴って日本に帰国する。「うまくいっていればどうなっていただろう?」
名目は遭難救助へのお礼と、日本近海の調査を目的にやって来たらしいが、
スペインと敵対するオランダより、今回の目的は日本侵略だと讒言されたらしい。
家康は、態度を一変させて冷遇するようになったらしい?「鎖国の要因?」
行き場を失った一行だが、仙台藩の伊達政宗から声をかけられたらしい?
政宗の目的は、表向きはスペイン本国との通商交渉だが、
実は世界最強の国と軍事同盟を結んで、倒幕を画策する説もあったらしい???
帆船には支倉常長ら180人の臣下も乗船させ、メキシコ経由でスペイン入りした。
いわゆる「慶長遣欧使節団」派遣である。
当時、フェリペ3世を国王とするスペインは、世界最大の植民地帝国であった。
1612年暴風に遭い座礁して遭難、仙台へ戻って修理建造した洋式帆船で再出発。
つまり、1613年10月28日に石巻・月の浦から出帆した。
4ケ月も掛けメキシコの太平洋岸アカプルコに到着した。
陸路でMEXICO-CITYにたどり着いたらしい。
歓待を受け貴族の邸宅に滞在して初めて現地での建築物等に圧倒されたらしい。
この後、大西洋岸のカリブ海に出て、スペイン帆船でヨーロッパへ渡ったとある。
離日から1年3か月後の1615年1月30日に、スペイン国王フェリペ3世に謁見している。
常長らが初めて太平洋と大西洋の両横断に成功した日本人という事だ???
その後、イベリア半島からローマ入り、11月3日にはローマ教皇に謁見している。
ところが不運なことにその時には、日本ではキリスト禁教令が出ていたらしい?
クリスチャンを捕えて火炙りの刑にするなどの弾圧が始まっていたのである。
日本のキリスト教徒虐待を知った欧州での通商交渉はとん挫した??
常長は5年間のヨーロッパ滞在後、1620年9月20日に帰国した。
幕府はスペイン船の来航も全面禁止し、ドン・ロドリゴ遭難の史実も消えた???
日の目を見たのは「慶長遣欧使節団」から251年が経った1968年の明治維新?
徳川幕府も崩壊した3年後の1871年12月の事である??
新政府は、公家出の岩倉具視を全権大使とし、 木戸孝允、伊藤博文、大久保利通など
新政府の重鎮閣僚のほとんどが揃い、1年10か月もの欧米視察旅行に出かけた。
いわゆる「岩倉使節団」である。
横浜から米国の蒸気船に乗り太平洋横断でサンフランシスコ、
アメリカ大陸横断で首都ワシントンまで、アメリカ滞在だけでも8か月であった。
岩倉はチョンマゲに羽織袴姿だったので珍しがられたらしい。
欧米とのギャップに意気消沈していた「岩倉使節団」だがその時?
250年も昔に、ほとんど忘れられていた常長ら「慶長遣欧使節団」が、
欧州で遺した衝撃的な事跡に出遭い、「岩倉使節団」は大感動して勇気づけられた。
トルコ「映画海難?」もメキシコも名もなき漁民の功績である???
参考・・・
『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、こう記載がある。
「彼らの伝承・記録から知ることが出来るのは、
神武天皇という最初の国王が君主制で日本の統治を行い出したのが、
主キリスト生誕に先立つこと紀元前663年も昔、
ローマ創建から89年後だということである。
日本が実にユニークな点は、2260年もの間、
同じ王家の血統を引く者、
万世一系の皇統で現在の108世代の後水尾天皇にまで渡って
後を継いで来ていることである」